ゲーテってどんな人?

研究風に

ゲーテは、極めて、自我の強い人間であったと言われています。

多くのゲーテ研究者が同様の見解を述べていますし、ゲーテと同時代に生き、実際にゲーテと交流のあった数多くの人たちが、直接間接を問わず、そのような意味の証言を残しています。

実際、私自身もゲーテの作品を読んでいると、そのように感じることは多いです。

きっとゲーテは自我の強い人間だったに違いありません。

そして、ゲーテは生涯、自らの自我の強さと戦い続けた人間でもありました。そこにまた、彼の偉大さもあるのではないでしょうか。

もちろん、自我の強さを短所と見ることは容易でしょう。我が強い、頑固、わがまま。身近にいると付き合いづらい人間に違いありません。

しかし私はここで、そのようなゲーテ批判を繰り広げたいわけではありません。

ゲーテは本質的に叙情詩人である。

ゲーテは芸術家でした。そして彼の芸術はすべて、自己の自我から発せられた叙情詩であったと私は感じるのです。

私は大学時代、シェイクスピアを研究していました。そのこともあり、この二人の比較を通して、より強くそのように感じるのです。

結論から申し上げますと、シェイクスピアは本質的に劇詩人であり、ゲーテは本質的に叙情詩人なのだと思われます。

それは二人の戯曲を見比べてみるとはっきりと分かってきます。特に注目すべきは、登場人物の数です。

正確に数えたわけではありませんが、シェイクスピアの戯曲には、平均して約20人~30人の登場人物がいるように思います。つまり、とにかく多いのです。

それに対して、ゲーテの戯曲では、代表的な作品だけに限りますが、『いとしい方はむずがり屋』は4人、『同罪者』は5人、『兄妹』は4人、『エグモント』は約20人、『タウリスのイフィゲーニエ』は5人、『トルクヴァート・タッソー』は5人です。

シェイクスピア劇を参考にして作られた『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』と、もはや戯曲と呼べるか怪しい畢生の大作『ファウスト』を例外としまして、ゲーテの戯曲作品は、ほぼ数名の登場人物で劇が構成されていることが多いのです。

つまり、シェイクスピアの劇と比べると、圧倒的に登場人物の数が少ないのです。

そのことから何が言えるのか。

基本的にシェイクスピアの劇は、数多くの登場人物の動きが絡み合いながら進行していくタイプの劇だと言えます。

対して、ゲーテの劇の筋はシンプルで、むしろ単調とも言えます。しかしながら、一人の登場人物の微妙な心の揺れ動きや、内面の声を掘り下げて描きます。むしろそれは、叙情詩と呼びたいくらいです。

この作品の特徴の違いは、時代的なものもありましょう。しかしながらやはり一番の要因は、シェイクスピアとゲーテ、この二人の人間の本質的な性質の違いから来ていると私は考えます。

要するに、「百の心をもつ」と称された劇詩人シェイクスピアとは違い、ゲーテは、基本的に「一の心」しか持たない叙情詩人なのです。

その「一の心」を爆発させたとき、すなわち自分の感情を爆発させたとき、それがそのまま詩となるような作家でした。

そんな強烈な自我に支えらえた、情熱的な叙情詩人だったと感じるのです。

人間が苦悩のうちに沈黙するとき、神は私に自分の悩みを言いあらわす力を与えられたのだ。

ゲーテ『トルクヴァート・タッソー』、小栗浩訳(『ゲーテ全集 5 新装普及版』、潮出版社)

学んだこと『自我を掘り下げ続けた先に普遍とつながる、というような境地が存在する』

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