私がゲーテを読んでいて、常に感じることはその豊かさです。そして、その多面性です。ゲーテの豊かさは、世界の豊かさそのものを示しているようにすら感じられます。
一体なぜでしょうか。
その疑問こそ、私をゲーテに最初に惹きつけた「きっかけ」とも呼べるものだと思いますが、それを解くための鍵は、ゲーテ特有の洞察の仕方に隠されているのかもしれません。
神秘思想家・哲学者・教育者として有名な、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner, 1861年 – 1925年)は、20代の頃はゲーテ研究者として活躍し、ゲーテの自然科学論の編集などに携わっていました。そんなシュタイナーは、ゲーテについて以下のように述べました。
ゲーテは、世界のありとあらゆることを洞察している。この詩人は、中心にある統一的本性から世界を洞察し、観察対象の本性に即した洞察結果を導く。ゲーテは、精神的諸力を統一的に活動させる力は自身の内に持ちつつ、精神活動のあり方は観察対象の側に合わせた。
ルドルフ・シュタイナー『ゲーテ的世界観の認識論要綱』、森章吾訳、イザラ書房
少し難しい表現ですが、シュタイナーが上のような言葉で表現している、ゲーテ特有の洞察の仕方は、一般的に「対象的思惟」と呼ばれることがあります。
彼においては対象が思惟のなかに、思惟が対象の中に深く入りこんでいる。
高橋義人『形態と象徴 ゲーテと「緑の自然科学」』、岩波書店
無限に豊かな自然を捉えるためには、自らも同じくらい豊かな人間にならねばならぬ、とゲーテは考えていたようです。
そんな彼は、自然研究においても、近代科学の方法を用いて自然を抽象化したり、物質化したり、はたまた支配しようなどとは決して考えませんでした。ゲーテの本性がそれを許さなかったといった方がよいでしょう。そうではなくて、文字通り、彼は全身全霊で自然の中に没入していきました。
その結果、ゲーテのものの捉え方は、自然の多様性を反映するような形で、多様なものへと広がっていったのです。
ゲーテの捉え方では、観察方法を観察者の精神から導くのではなく、観察対象の本性から取り出すので、その方法は無限である。
ルドルフ・シュタイナー『ゲーテ的世界観の認識論要綱』、森章吾訳、イザラ書房
つまり、ゲーテにとって、ものの見方は「もの」が決めるのです。先に自分の見方があって、それを用いて「もの」を見るのではありません。それぞれのものには一つひとつ異なった、それが本性から要求している見方というものがあるのだと、ゲーテは考えました。
だからこそゲーテは多面的なのではないでしょうか。芥川龍之介の目に、「あらゆる善悪の彼岸に悠々と立つている」(芥川龍之介『或阿呆の一生』)ように映ったのではないでしょうか。
ゲーテはものを考えるとき、「もの」を自分から切り離して観察することを好みませんでした。「もの」に即し、深く一体化して考えることを自らの天分としていました。
小説『若きウェルテルの悩み』おいて描かれている、自然の中に身を深くうずめながら、溢れる胸の内を漏らすウェルテルの心情は、ゲーテ自身の姿そのものでもあったのだと思います。
ああ、こんなにもゆたかに、こんなにもあたたかく己の中に生きているものを表現することができたらなあ。
ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、高橋義孝訳、新潮社
このようにして、ゲーテは、世界の色とりどりな色彩を喜びを持って享受しました。それが、彼の晩年の大作『色彩論』にも繋がっていきます。齢六十一のゲーテは、『色彩論』を多年の研究の末に書き上げ、ニュートン科学へ戦いを挑むことになります。
「詩人として私がやってきたことなど」と彼は繰り返しよく言ったものだ、「どれに対しても少しも自負などもっていないさ。優秀な詩人が、私と同時代にはいたし、前の時代にはもっと秀れた詩人がいたし、これからもそういう人は生まれてくるだろう。しかし、今世紀になって色彩論という難解な学問において、正しいことを知ったのが私ただ一人だということは、私のいささか自慢にしていることがらだ。だからこそ、私も多くの人よりすぐれているのだという意識を持っているわけなのさ。」
エッカーマン『ゲーテとの対話』、山下肇訳、岩波書店
あるとき、ゲーテは、『色彩論』の中のある箇所に誤りを指摘したエッカーマンに向かって、怒りを露わにし、顔色を変え、「詭弁」だと罵りました。
自身の著作『色彩論』に対し、ゲーテは特別な思い入れを持っていました。
なぜなら、『色彩論』が発刊以来受けてきたものは、同時代人達からの非難と中傷、はたまた無理解以外のものでなかったからです。
敵はあまりに巨大でした。四方八方から攻撃してくる相手との戦いの中で、ゲーテは『色彩論』に対する非難に対して、過剰な防衛反応を起こすようになっていました。それが、誤りを指摘する自身に対して怒りを露わにした理由ではなかろうか、とエッカーマンは推察しています。
また別のあるとき、ゲーテはエッカーマンに言いました。
私は、いつも、みんなからことのほか幸運に恵まれた人間だとほめそやされてきた。私だって愚痴などこぼしたくないし、自分の人生行路にけちをつけるつもりはさらさらない。しかし、実際はそれは苦労と仕事以外のなにものでもなかったのだよ。七十五年の生涯で、一月でも本当に愉快な気持ちで過ごした時などなかったと、いっていい。
エッカーマン『ゲーテとの対話』、山下肇訳、岩波書店
他人を見て周囲が抱く考えと、本人が実際に感じていることの間にはいつだって大きな隔たりがあるものではないでしょうか。
ゲーテにとって、生きることは、自己を豊かに完成していくための険しい道のりだったのかもしれません。
たとえ傍目からは、金銭にも才能にも恵まれた、何一つ不自由のない、幸福な人生のように映っていたとしてもです。
若い頃から太陽のような目を持つと言われ、ギリシャ神話のアポロンに譬えられ、天才シラーに「真の人間」と称えられ、皇帝ナポレオンに「これぞ人間」と言わしめたゲーテは、本当は胸の内では、何を思い、何を感じ、日々、この世界を生きていたのでしょうか。
そのようなことに想いを馳せながら、これからも私は、ゲーテを読み、研究していきたいと考えています。
学んだこと『対象的思惟、言うは易く行うはあまりにも難し』
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